余計なお世話のすすめ
増澤喜一郎 
 最近、「ボランティア」の必要性が声高に語られている。
 文部科学省が実施する小中学校教員の初任者研修のカリキュラムには、ボランティア活動体験等の校外研修を週1日・年間30日程度行うことが義務づけられている。
 つまり、小学校や中学校の先生になるためには、週に一回ぐらいはボランティアをやらなければならないというのだ。
 そんなものがボランティアと言えるのだろうか。辞書を引くと、ボランティアとは「自由意志を持って社会事業・災害時の救援などのために無報酬で働くこと」とある。教員の仕事の一環として”義務づけられた”ボランティアなんて言葉の矛盾もいいとこだ。
 「良いことは、他人に気づかれないように、そっと隠れてやる−」
 これは、昔、古老から聞いた社会奉仕の鉄則である。その時は、「なんだ。それなら悪いことをやるときと同じではないか」とひとり笑ったが、今思い返すと、なかなか説得力がある。
 ボランティアとは、他人のためではなく、自分のためにやる無償の行為である。「余計なお世話」と思われようと何だろうと、とにかく他人(ひと)のために何かしよう、という気持ちを持つことが大事だと思う。
 故郷信州の秋、見事な実をつけた柿の大木に腕白仲間とよじ登っていると、通りすがりのオヤジに怒鳴られた。大急ぎであわてて降りようとすると、そのオヤジ、声の調子を落として「坊たち、いいか。柿の木というのはどんな大木でも枝が裂けやすいんだ。あぶないから柿の木だけは上ってはいけないよ。実をとるときは必ずハシゴでとりなさい」とさとされた。オヤジが怒鳴ったのは、他人の子の身を案じての行為だったことが、幼ごころにもよく理解できた。
 かつての日本には、こうした口のうるさいおじさんやおばさんがどこにでもいて、彼らが子供を叱ることが、そのまま共同体の社会教育のシステムとなっていた。
 日本時は、こうした他人の”余計なお世話”のおかげで、幼い頃から「やっていいこと」と「やってわるいこと」をしつけられてきたのである。
 それが今ではどうだ。何をやっても「プライバシーの壁」が立ちふさがり、社会教育にも事なかれ主義が幅をきかせ、余計なお世話はどこかへ行ってしまった。
 そうした環境に慣れ親しんだ最近の若い人には、生き甲斐がないという。昔に比べ、はるかに恵まれた暮らしをしているのに、彼らが生き甲斐を見いだせないのは、なぜだろうか。
 それは、自分が生き甲斐を感じたときのことを思い出せばよい。何かを背負って必死に歩き続けるとき、人は生き甲斐を感じるのである。
 人間というのは不思議なもので、自分ひとりが幸福ならばそれで良いというわけではない。他人に奉仕することで喜びを感じるようにもできている。ならば、無償の行為であるボランティアに真剣に取り組むことは、生き甲斐を見いだすための最良の処方箋となるはずだ。健全な社会を再現するためにも「余計なお世話」をする人がひとりでも多く増えることを望みたい。